妊娠へのサポートが私の使命/インタビュー003_吉野 愛 さん

「食と性の伝道師」吉野 愛さん(41)
ご主人、子ども4人の6人家族/div>

肩書きは組み合わせたのにはどんな理由が?

元々は食の活動をしていたのが先。長女がアレルギーで乳製品がダメだった。
乳製品や卵を使わないお菓子作りを勉強し、イベントで出したり、週1でカフェなどしていた。それに性の活動が加わった

もともと性にも関心あった?

関心はあったけど活動まではしていなかった

何かきっかけが?

大阪のアマナ性教育協会の講座についてfacebookの記事を見かけたのがきっかけ。
これはいかなきゃと思った。1年間大阪に通って性教育の勉強をした。
子どもへの性教育ももちろん大事だけど、子どもに性教育を伝えていればいいわけじゃない。
自分自身はどうか。パートナーシップはどうかなど、自分の性もおきざりにしないでそこもしっかり見つめることで、子どもにより伝わる。それを感じて大阪まで学びにいった。

いつごろ?

子どもはすべて生まれていた。2017年4月から1年。

お子さんいるなかですごい決断しましたね

やっぱりそれまでは子どもが小さいし、母親だからというので、母親業を優先すべきみたいな感じでずっときていたが、どうしてもやりたいということで夫の理解をスムーズに得られたわけではなく、大反対にあった。お金もかかりますし、いってかえってくるだけでもけっこう交通費もかかる
こんな小さい子をほったらかしてどういうつもりなんだといわれてけんかして、ぐちゃぐちゃになったんですけど、そこで次女が、当時小学校高学年だったかな、ママの好きなことやらせてあげなよ、という一言があって、それにすごい救われた。

ご主人が動いた?

まあしょうがねーかみたいな感じ。でも下の子はいかないでと泣いていたので心苦しかったけど、ひとしきり泣いたら気が済んで、じゃあお土産買ってきて、お土産買って来てくれればいいよ。やだーっていって、気が済んだんでしょうね。

定期的に通っていた?

月に1回土日の連続講座。金曜の夜に夜行バスでいって、土日。日曜の夜に還ってくる。

その決断が今の愛さんをつくってるんですね

それまでそこまで自分がやりたいということに対して、そこまでの決断をしたことがなかった。それで夫との関係も変わった気がする。

本音をいえるようになった?

そうですね。

ご主人の話で、ご自身が流産とかしたとき、周りのサポート状況について、当時はどうだったか? 東大病院にも通われていたとあったので

流産と確定したのはだいぶ後だった。最初は熊谷の鮫島クリニックにいった。初期のころ、6週とか10週になっていない頃の小さい時期、翌週いって大きさが変わっていないかなあみたいな感じがあった。でも分からないからまた翌週来てといわれた。やっぱり判断ができないといわれた。育っているのか、とどまっていて育っていないのか、周りの産婦人科の先生たちとエコーを見て話していたが、判断できなかった。
もしも育っていたとすると、とても危険な場所だった。子宮頚管だったので、そこで育ってしまうと昔だとエコーもない頃は母子ともに危険。頚管妊娠の疑いだった。
流産なのか頚管妊娠なのかわからない状態。
流産ならそのままみられるけど、頚管妊娠だった場合は、手術できない。
周りの大学病院に聴いてもらったけど受け入れられないといわれた。そんな危険な状態では。
それで結局東大病院にいった。1か月ちょっとくらい通った

不安でしかないですよね、わからないというのは

そうですね。複雑でした。その場所で育ったとしても命は助からないので、自然に流れてくれた方がいいんですけど

二人目のお子さんと3人目の間。そのときの旦那さんのサポート状況は?

夫の実家で同居していた。夫が何かしてくれたという記憶はあまりない。心配はしてくれたけど、何もしようがない。経過観察。

聞き手/プリンセス時間プロデューサーKana